文系人間、科学を扱う 【書評】なぜ科学を語ってすれ違うのか
エネルギー問題や地球温暖化、パンデミックなどなど、科学的な問題に社会的な対処が求められるようになりました。
つまり文系でも理系の知識が必要とされるようになっているということです。
しかし高度に専門的な判断を、大学で科学を専攻してこなかった人間に求められても困るわけで、じゃあどうしたらいいのかというのは近年様々な場面で強調されることであります。
本書はそれについて論じた本ではないですが、科学と社会とのかかわりを考えるための基礎として重要なのではないかと思います。
なかなか手ごわい本なので、一読しただけで筆者の主張が理解できているかわからないですが、以下で簡単なまとめと感想を述べてみたいと思います。
本書の副題にあるソーカル事件とは、物理学者のアラン・ソーカルが『ソーシャル・テクスト』誌に投稿したでっち上げ論文が掲載されてしまい、直後にソーカルが『リングア・フランカ』誌でその事実を暴露したという一連の事件のことを言います。
背景には、サイエンス・ウォーズと呼ばれる、当時の親科学派たる科学者と、反科学派たる社会構成主義者との対立があります。
社会構成主義とは、科学は社会の構成物であって、自然に存在する法則や真理などではない、とする立場を指します。
自然科学の理解が曖昧なままに社会構成主義の言説を構成する者もいたようで、この態度の危うさを示すためにソーカルが上記の暴挙に出たわけです。
筆者によれば、ソーカル事件の意義は「親科学的な左派」の台頭にあるそうです。
伝統的には、親科学者=左派、反科学者=右派でした。
ダーウィンの進化論を推進する科学者と、創造論を推進する宗教的保守派との対立をイメージするとわかりやすいです。
しかし、サイエンス・ウォーズのころは、親科学者=右派、反科学者=左派という位置づけになっていました。
たとえば、黒人と白人のIQを調べた結果、遺伝子的に白人の方が優れていることがわかった、などと科学者が人種差別に加担し、反科学的左派がそれを非自然科学的な方法で批判する、ということがありました。
ところが自身で左派を標榜するソーカルがちゃぶ台をひっくり返しました。
その結果、科学的なものに対する距離と、左右との結びつきが薄くなりました。
親科学の立場から、例えばデータの恣意性を指摘するなどの方法で、自然科学的調査を批判するなどのことがやりやすくなったわけです。
これが、筆者の述べるソーカル事件の意義です。
ゼミ論でも自然科学的なテーマを扱うメンバーがいましたが、すっきりとした結論が出た論文は無かったように思います。
おそらくそれは、自然科学上の問題は高度に哲学的な問いを含むからです。
自然科学を完全には理解できないことを前提にしながらも、社会的な決定を行うための指標、言い換えれば哲学がなければならないのでしょう。
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