【書評】科学コミュニケーション
以前に『なぜ科学を語ってすれ違うのか』という本を読みましたが、大きなテーマはそれと同じ分類に入る本です。
科学技術に関する話題について、文系と理系の溝をどう埋めるか、というような話です。
この手の問題には、「サイエンスカフェ」など、科学との接点を増やすような方向性の処方箋が提示されることが多いですが、
そもそも科学に興味がない人はそういうものに参加しない、といった問題点があります。
この本の面白いところは、この問題を考えるにあたって、人間の考え方や、科学の歴史など、遠回りをしていることです。
その結果、わかるのは、人間は何もかも論理的に考えるわけではないし、科学は最初から論理が重視された営みではなかった、ということです。
前者の一例を挙げてみます。
本書の59ページに書かれている例です。
ここに4枚のカードがあり、それぞれ「A」「D」「3」「6」と書かれている。
そして、これらのカードには「一方の面が母音のカードの反対面は、必ず偶数」という命題があるとする。
この命題が真であることを確認するにはどうすればよいか。
このような実験をすると、Aのカードだけをめくる人が圧倒的に多いそうです。
しかし、ある命題が真であることを確認するためには、その対偶も真でなければなりません。
すなわち、「一方の面が奇数のカードの反対面は、必ず子音」という命題も真であることを確認しなければなりません。
したがって、Aのカードと3のカードの裏側を確認しなければならないのです。
一方、問題を次のように変えると、正解率は著しく上昇するそうです。
「ビールを飲む人は、20歳以上である」という命題の真偽を確認するためには、次の4人の誰に質問すればよいか。
「ビールを飲んでいる人」「コーラを飲んでいる人」「16歳の人」「25歳の人」
答は、「ビールを飲んでいる人」と「16歳の人」です。
論理的に考えれば、アプローチの仕方は上と同じです。
しかし、こちらの問題の方が正解率が高いということから、こちらはより身近な社会規則に関わることだから考えやすかったのであり、
人は必ずしも論理的に考えているわけではない、と言うことができます。
さて、人間の思考法や科学のもともとの非論理性に触れた筆者が最終的に冒頭の問題に出した結論は、
世界観や価値観を提供することこそが必要だ、というものです。
いくら科学者が原発の安全性を論理だてて説明しても、人間は感情の動物なので腑に落ちない。
そうではなく、科学者本人の持つ価値観や世界観を提供することが、文系と理系の溝を埋める鍵だ、というわけです。
これは、個々の科学者のカリスマ性に大きく頼る話であって、具体的な方法を示すことが非常に難しいです。
また、社会学の用語で「大きな物語の喪失」「島宇宙化」などと評される現代社会において、世界観や価値観を共有することはとても困難です。
筆者も、そのあたりの難しさを感じているようで、大きな方針を示すことはできても、有効な解決法を示すことはできていないようです。
マイアースのようなゲームで大きな世界観・価値観を示し、その後の教育でフォローするという方法は有効かと思いますが、
「科学」とは個別具体的な事象であるとともに、1つの方法でもあるということを考えると、片手落ちの感は否めません。
結局のところ、義務教育プラス高校・大学のおよそ10年で、「科学的な態度」を身につけましょう、ということなのでしょうか。
少なくとも、ことさらに放射性物質に恐怖を感じる人を情弱認定してバカにすることが解決にならないことだけは確かです。
« 大連にやってきました | トップページ | Lang-8はSNSとしてもなかなか機能的ですよ、というおはなし »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 【書評】『ファクトフルネス』(2020.05.09)
- 【書評】『母さん、ごめん。』(2019.04.21)
- 【書評】『スッキリ中国論』(2018.12.31)
- 【書評】『誰もが嘘をついている』(2018.11.08)
- 【書評】『世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事』(2018.10.14)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント