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2013年4月21日 (日)

【書評】『食の終焉』


食の安全の問題というと、何を思い浮かべるでしょうか。
安全性の低い農薬を使った中国産野菜や、メラミン入り牛乳、あるいは牛肉の産地偽装あたりを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
この手の事件が騒がれるたびに、国産野菜を買おうだの、トレーサビリティが大事だの、個別の処方箋が示され、実際にそれなりの改善を見るように思います。
しかしながら、本書ではそれらの個別な問題より視野を広げ、マクロな問題を提示しています。

筆者は本書中で、食の供給が、生産から卸売業者、小売業者、食品加工業者などを巻き込んで、消費者に届くまでが鎖のようにつながっており、1つのシステムのようになっていることを示します。
筆者はこれは「食システム」と呼びます。
そして、この食システムがいつ崩壊してもおかしくないということを1つ1つ述べていきます。

例えば、現在食肉の供給が逼迫していることです。
特に発展途上国が豊かになり、食生活が欧米化していることが不安の種の1つになっています。
農産物の生産も同様で、農地不足を補うために世界各地で森林が焼き払われているといったことが示されています。
この手のマルサス的な、つまり人口は等比数列的に増えるが、食糧は等差数列的にしか増えないから食糧は将来的に不足するはずだ、といった懸念に対しては、次のような反論が示されることが多いです。
つまり、人間は人口を増やしてから食糧を確保するのではなく、食糧を確保してから人口を増やすのであるから、食糧不足にはならない、と。
しかしながら、食システムの崩壊という観点からみると、この反論の妥当性は怪しくなります。
食糧が確保できたと思っていても、それは例えば鳥インフルエンザや農地の土壌流出による生産性の低下などによって容易に失われうるからです。
グローバル化によって食システムが1つにつながった状況下では、日本にいるからといって中国の鳥インフルエンザは無関係でいられるわけではないのです。

筆者も食システムの崩壊という懸念への抜本的な対策を示せているわけではないですが、1つの方法として、地産池消を提唱しています。
日本の食糧自給率に関する議論を思い出させますが、日本の議論は主に外交的な要因で輸入ができなくなることに基づいていました。
筆者の視点はこの議論に新たな材料を提供したことになります。

筆者は、問題の本質は食というものが市場原理となじみにくいものであることにあると指摘します。
消費者は1円でも安いものを買おうとするので、小売店や生産者など各プレイヤーが効率化を図ってコストを下げる努力をし、その結果、ギリギリのところで成り立っている食システムが築き上げられてしまったのである、と。
納得できることではありますが、それでも私は市場の内部で解決できないものか、と固執してしまいます。
スーパーに行けば、安全性に疑問を持ちながらも、まあ大丈夫だろうと思い込んで1円でも安いものを買いますし、20、30年後も同じように安全な食品を売っているかのような根拠のない考えを持ちます。
結局何をすればよいかがわからぬままです。

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